【アブグレイブの米兵は普通の人間】
写真の説明は一旦おいておいて、1971年にスタンフォードで有名な心理学実験が行われました。
その名も「監獄実験」。
なんとも物々しい名称ですが、内容は想像を上回ります。
端的には以下のような実験です。
①ごく一般的な人間をランダムに21人選出。
②11人を看守役、10人を囚人役とする。
③14日間看守は囚人を好きにできる。(正確には何をしても誰も責めない)
という実験でしたが、囚人役は実験初日に本物の警官に逮捕され、スタンフォード大の地下に特設した牢屋に目隠しして連行されました。
いくら実験とはいえ、ここまでされると結構ブルーになると思います。
とにかくそんな「本物っぽい」環境下で実験がスタートしました。
初日は看守役も実験なので遠慮していましたが、二日目からはだんだんと囚人役の人たちを乱暴に扱うようになってきました。
うつや錯乱状態に陥るものもいて、最終的には牧師が止め、囚人役の家族が弁護士を連れて抗議したところで実験終了となったようです。
14日の予定が半分にも満たない6日間で終了しました。
この実験の経過は、実際の監獄の様子に酷似していたそうです。
イラクのアブグレイブでの米兵のイラク兵に対する陰惨な仕打ちは、その米兵が異常だっただけという扱いで報道されていたと思いますが、実態はもっと深刻なのです。
要するに、監獄での環境は大抵の人間をおかしくさせるのです。
囚人は服従することで精神を患い、看守は際限無く残酷になれるのです。
どちらも「普通の人」であっても、それは変わらないのです。
この実験を行った、スタンフォードの責任者は、この(看守役に当たる)状況に陥る条件として冒頭の7項目を挙げています。
以下がその和訳です。
>考えもなく、最初の小さな(罰を与えるという)ステップを踏むこと。
>他人の人間性をはぎ取ること
>自身の没個性化を図ること
>個人の責任をあいまいにすること
>権威に盲目的に服従すること
>グループの規範には無批判に従うこと
>怠慢や無関心によって受動的に悪を許容すること
これはどの人間にも内在した「快楽」なのかもしれません。
私は流行りのゾンビ系ゲームにもこれを感じます。
相手は、「殺されて当然」の人間という設定です。
自分はある意味正義の味方です。ゆえに殺すことに責められることはありません。
そして、殺すことはゲーム上のルール(権威および規範)です。
実際には人間に相当する対象を無関心に殺しまくります。
ゾンビ系ゲームは特にアメリカで流行りやすいと思いますが、日本でもウケます。
ここで私が言いたいのは、こういう特殊環境下での危険性ではありません、。
むしろ、これは通常の一般社会でも近い環境があるのではないかと思ったのです。
例えば学校です。
囚人・・・成績の悪い人間やルールを守らない人間
看守・・・成績の良い人間やルールを厳守する人間
と見立てて、上の七つの項目を見直してみてください。当てはまるように感じませんか?
また会社でもほぼ同じです。
囚人・・・成績の悪い人間や上長の意思をくみ取らない(くみ取れない)人間
看守・・・成績の良い人間や上長の意思をくみ取れる人間
囚人に当たる人間がうつになり、精神を病み、場合によっては自殺するのです。
看守側の人間はやはり普通の人間です。
しかも自分たちがそういった加害者であるなどと考えていません。
大抵は良識な人間と自分を考えています。
気づいていないのです。
これほどおそろしいものはありません。
悪意を持っていると自覚している人間はまだまだマシに思えます。
どこかで制御が利くかもしれませんし、反省もするでしょう。
しかし、自覚していない人間はむしろその行為を自分で「是認」しているので、エスカレートしても気づきずらいです。
監獄ほどの分かりやすい残忍さはないかもしれませんが、じわじわと蝕んでいることはあると思います。
これはそのポジションにある人間が悪なのではなく、その環境を作り上げている社会、要するに我々全員の責任であると考えるべきなのだろうと思います。
その異常さに早く気付くべきだと思います。
ではまた。
【ニュース】
私、あんまりマスコミを意図的にたたくのは好きじゃありませんが、近ごろのコロナ関連ニュースや安倍政権批判への偏向報道には嫌気がさします。
特にコロナです。
毎日毎日「今日の都内の新規感染者○○人!」。
増えるのを喜んで報道しているように見えます。
減ったとしても、「4日連続100人以上!」とか、何か人の不安感をあおるような掻き立て方をしています。
そりゃね、世界的に見てまだまだ死者が絶えない国もありますから、深刻な部分あるのは分かりますが、日本の今の状況からそんなにあおりまくる必要ありますかね?
言われなくても結構みんなマスクしてるし、手も洗ってるし、店はみんな入口に除菌スプレー置いてるしで気を使ってます。
緊急事態宣言が好きなんですかね?
でもね、考えました。
マスコミも結局サラリーマンなんだ、と。
だから視聴率や新聞雑誌の購読数を増やさないといけない。
そんな時に、うれしいニュースとネガティブなニュースとどちらを報道する方が数字を稼げるか?
そうです。ネガティブなニュースです。
理由は二つです。
一つ目。
人は喜びより悲しみや焦りの方を重要視するからです。
いわゆるプロスペクト理論と呼ばれるようなものに似ていると思います。
プロスペクト理論は投資の世界でよく引き合いに出されますが、同じかなと。
だから、人は失うものに対して強く興味を持つのだと思います。
二つ目。
喜びは一過的だが、ネガティブなニュースは継続する。
喜びのある、ハッピーなニュースはそこでストーリーが完結します。
ああ、良かったね。で人はひと段落してしまいます。
ところが、事件や事故のようなネガティブニュースはエンディングを迎えられず、課題という形で人の心に残ってしまいます。
例えば汚職事件のようなものは、その後その政治家はどうなったのか、裁かれるのか、のうのうと政治家を続けているのか、それとも議員辞職して済まされるのか。また、その当事者の顛末のみならず、その与党はどういうスタンスをとるのか、解散するのか、そもそも政治家とはどうあるべきか?
などなど、どこまで行っても終わりがありません。
それはこの場合「怒り」というものを引き出しているからです。
怒りはこの場合ぶつけようがありません。まさかその政治家に直接文句を言いに行くわけにもいきませんし、仮にその所属している党の事務所に掛け合ったところで大して相手にされないでしょう。きっとむしろ不満が増長するだけかと思います。
怒りはぶつける相手が不明になると、いつまでもくすぶってます。
くすぶっているということは、言い換えれば興味が継続しているということです。
だから、翌日の新聞でも同じネタを書くわけです。そして少し「庶民の怒り」の代弁をしたり、はたまたもっとひどい怒りのネタを暴くわけです。そうすると、怒りの興味は尽きませんね。
不安も同じです。
新型コロナが蔓延している、症状がひどい、回復してからも後遺症がひどい、、、などなど、とにかく不安にさせるニュースを好んで書き立てます。
不安も怒りと同じように、完全に火消ししない限り、いつまでもくすぶって興味が継続されるからです。
だからニュースは常に怒りや不安の元となる内容を提供するようにしがちなのです。
いわば報道の延命処置です。
もし「新型コロナは日本においてはさほど心配なく、いままでどおりマスクの着用をある程度行い、手洗い消毒を心がければ大きな問題はありません。」と報道したら、新型コロナのネタはジ・エンドです。
こんなおいしいネタめったに無いのにもったいないわけです。
芸能人の麻薬ネタや不倫ネタはそれに比べると興味を持たれる範囲も時間的継続期間も小さいのです。
だから、ネガティブニュースは大事に大事に延命させるのです。
こんな姿勢で流れる報道を毎日毎日見ていたら、おかしくなると思いませんか?
よく言われる陰謀論とかじゃないですよ、マスコミの報道の方向性は。
単にサラリーマンなだけですよ。
なのでそれは一概に責められないと思います。
我々だって職業は違いますが、同じようなことしてると思います。
エンドユーザーの幸せや満足だけを願ってサラリーマンやってる人がいたら、多分クビになってます。
ほとんどたいていの人は、穏便に過ごせることを優先してサラリーマンやってると思います。
だとすれば、行動原理はまず上司の言うことをきく、です。
そしてその上司もさらに上の上司の言うことをきく、です。
一番上の経営者は株主を裏切らないようにする、です。
政治家なら選挙です。
報道機関なら、視聴者数と発行部数です。
株主、選挙、視聴者数と発行部数。
これらは群集心理です。
群集心理は先ほどのプロスペクト理論にものの見事にハマります。
なので、ニュースを見て、「マスゴミ!」とか文句言うんだったら、スルーすることです。
少なくとも見過ぎないことです。
見てもすぐ頭の中で分類して、「これは引き延ばし作戦系のネガティブネタ」というジャンルの箱を頭の中に作っておいて、ごみ箱のようにしておくのです。
彼らを責めても何もなりません。
あなたと同じサラリーマンなのですから、会社の意思に沿って行動しているだけです。
心の中で無視しましょう。
この記事をここまで読んだあなたなら、できるはずです。
というかとっくに分かっていると思います。
それでは、また。
【消費の行方】
買い物って楽しいですよね。
私も何かと気になるものがあると、ついお手軽なのもあってAmazonでポチってしまいます。
しかしよくよく考えてみると、これって際限なく物が供給され続けるってことは物理的に無いと思うんですよね。
人間の消費スピードに生産が追い付かないと思うんです。
生産と言っても、工場の能力ではなく、その原材料が枯渇するって意味です。
工業製品は鉱物資源から生産されているものが多いと思いますが、鉱物って数年で元の量に戻るようなものじゃないですよね。
しかも自然の営みであれば、循環していますが、工業製品は部分的にリサイクルされているものもほんの少しあるものの、大部分は埋め立てられるか、焼却されるかですよね。
要するに有機的に循環していないんです。
そんな中で、目的としては稼ぐために生産と供給をし続けるわけです。
人間とはそうやって生命を維持するものだと言わんばかりに。
お金は無限です。ある意味いくらでも数字をデジタルに打ち込んでしまえば、紙幣を刷らなくてもどんどん増やすことができます。
これからもさらに紙幣は使われなくなるでしょう。
人間の意のままです。
金融緩和や金融引き締めなんて偉そうにやってますが、あれはそういうことです。
お金の流通量はいくらでもコントロールできるのです。
しかもお金は人類の社会の中だけで存在しているので、その中では循環しています。
だから、人は経済は循環しており、経済とはお金の流れであるという認識を持った時、お金が尽きることは無い(破綻はあっても)という前提から、それに伴う物的生産供給も無尽蔵ととらえてしまいがちだ。
いや、たいていの人は有形のモノが無地像とは、冷静に考えればあり得ないことは理解できていると思う。
けれども、日々の生活や仕事の中で、生産供給が原材料の枯渇から終了するとは想像しない。
仮にある原材料が枯渇しても、他のそれに代替えできるものを見つけ出し、安心知るだろう。
しかし、いつかはすべてが枯渇するときがくる。
そんなことを考えてSDGsも叫ばれているのだろうが、どうも私はああいうクリーンなイメージを売り物にする取り組みが好きになれない。
それは置いといて、この飽くなき消費の継続はいったいいつまで続くのだろうか。
ほとんどの人類が、これはまずい、立ち戻ろう、と本気で行動を開始する状況というのは、どういった状況なのだろうか。
今新型コロナの騒ぎが収まらない中、本当に大切なものとはいったい何なのかを考えさせられる時期に来ているようにも思う。
ある意味残念なことに、まだ日本ではその認識が薄い。ラッキーな状況ともいえるかもしれないが。
しかし、今年の冬に第二波が襲ってきたとき、何が何でも物質的な充足感を求めるだろうか。
本当に必要な消費とは何だろうか。
今年の年末は、人類がそのことを考えさせられる時期の本当の起点となるのではないかと考えている。
ではまた。
【経験に学ぶ】
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
っていう言葉を先日知りました。
「なるほどなぁ」
「確かにそうだなぁ」
なんて感心してました。始めは。
でもよくよく考えてみると、人間てやっぱり経験したことしか「ちゃんと」分かってないような気がしてきたんです。
だからって勉強が無駄ってことじゃないんですが、本や人から聞いただけで分かったつもりになるのは危険じゃないかと思えました。
大人になると積極的に勉強していない人の方が多いと思うので、その中にあって、勉強している人は学んでいない人を見て、本などを読んで先人の知恵を授かるという尊さを訴えたいのでしょう。
それはそれで分かります。
私もそう思いました。
でも、だとしたら、めちゃめちゃ勉強している教授や博士は最も偉いのでしょうか?
彼らは何でも知っているのでしょうか?
最も正確なのでしょうか?
違うと思いました。
思い出したんです。あることを。
もう20年以上も前になりますが、テレビの深夜番組で当時テレビによく出ていた心理学の教授と戸塚ヨットスクールの校長が出演していて、ある女子高生のお悩み相談に答えるという設定で放送していたんです。
もうどういう相談だったか具体的には忘れましたが、その相談に対する二人の回答がとても対照的というかレベルの差を感じたんです。
教授はどこかの学説や症例なんかを持ち出しながらいかにもアカデミックな回答をしていたのですが、校長の方は一刀両断です。
「結局甘ったれなんだよ!」
もう身もふたもないです。
隣の教授がビクッて(笑)
でもそのあとの話が、まるで「あなた見てたんですか?」っていうくらい的確にその女子高生の心理状況や気持ちを指摘するんです。
相手の女子高生もずっと「はい、はい、、、そうです。」みたいな感じで、ズバズバ言われまくり。
一旦また教授のコメントタイミングになったものの、教授、完全に飲まれてしまってしどろもどろでした。
もう彼の知識では立ち向かうようなコメントを繰り出せないという感じでした。
その様子を脇目に、お構いなしに校長は続けてバンバン(^^;)
「すげぇ~!」
実は私大学で心理学科だったのですが、正直言って心理学ってすげー未熟だなと思ってしまったんです。入ってから。
ま、それは置いておいて。
結局、校長が語っていたのは彼の経験だったんだと思うんです。
彼の学校にはもう手を付けられない不良や精神的に問題ある少年少女が集まっていたわけです。
そんな彼らを更生していたんです。
まっ正面から受け止めて、戦っていたんです。
だから、その女子高生の話を聞いた瞬間に映像が浮かぶように分かったんだと思うのです。
心の琴線やひだのレベルで感じられたんだと思うのです。
これって、勉強で習得できることでしょうか?
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
私は改めて思いました。
「少なくとも一個人にとっては、経験に勝る知識はない」と。
ではまた。
【正論の怖さ】
特に会社では、なんですけど、正論を言って相手を黙らせる人っていません?
その言い方も押さえつけるような言い方で。
軟か楽言ってくれればまだいいんですが、「これが正論だ!なんか文句あるか?」ってな感じの勢いで言ってくるんです。
相手はその勢いでも圧倒されますが、言い返したくても正論なもんで言い返せず、
「まぁ、確かに。。。」
みたいに歯切れ悪くても引き下がらざるを得ないんですよね。
これの一例がコンプライアンスですよ。
「それってコンプラ違反でしょ?」
って言われてしまうと弱いですよね。
パワハラじゃない?セクハラじゃない?
なんてのも似たようなものですが、もうこれ言われると、下手に反論しようものなら日本社会を相手取るようなもんです。
相手が悪すぎるので引き下がるということになります。
相手が悪いと言うのは、相手が強すぎたり、理不尽な人間だったりするものですが、正論ぶちかましてくる人間も同じだと思いますよ。
ちなみに正論ていうのは、現時点で誰もが反論しにくい「理想形」や「あるべき姿」ってやつです。
たとえば、
・人に嘘ついちゃダメですよね?
・迷惑かけたらいけないでしょ。
・だまってやったらコンプラ違反になっちゃいますよね?
ってな感じです。
いや、おっしゃる通りです。
それは否定できませんよ。
だから正論なんです。
もう少し視野を広げると、
・人権を否定するのですか?
・人間は生まれながらにして平等であるべきです。
・皆が自由に意見を述べるのが本来正しいですよね?
なんかです。
これまた反論しずらいです。
会社のみならず国会なんかでも弁論技術的に用いられますよね。
でも、私が思うにこれってその時の討論では勝てるんですが、ちょっと卑怯な感じがします。
正論を言った瞬間になんかその人は社会的多数派の代弁者みたいな格好になりますし、そういう立ち位置に立とうとして発言していると思うのです。
で、言われた側は引き下がる。
・ポリティカルコレクトネス
・○○ハラスメント
・SDGs
以上のような価値観や見方が跋扈(ばっこ)しているので、これに反するような意見を言うと総攻撃を食らうのです。
その時の攻撃側の様子ときたら、錦の御旗を掲げてるかのような鼻息の荒さです。
昨今のネットニュースへのコメント欄も同じです。
正論だなぁと思う反面、「偉そうに」と思ってしまうことも多いです。
こうした正論にどんどんと反論しずらくなっている世の中です。
アウトローみたいな人が姿を消しているように思います。
結局みんな同じ、という価値観が今は当たり前になりすぎていて、正論に反旗を翻すような風潮が全く無くなってしまったのでしょう。
だから、国のコロナ対策も関係者間でのなぁなぁな落としどころしか見つけ出せないんじゃないかなと思います。
和牛券、商品券、布マスク、、、
検討している誰からも反論が出ないものに落ち着いていくわけですね。
政府だけでなく、企業も社会もそうだと思います。
日本はそういう社会になってしまっているんです。
これを変えられるのは、今の20代以下だと思います。
ではまた。
【業務の自動化】
最近だとごく当たり前になってきている業務の自動化。
RPAだとかRPDだとか言いまして、単調なPC業務をプログラムが自動的に行ってくれる仕組みです。
自動的に処理できるというところがマストなので、クリエイティブな仕事や判断が必要な仕事は基本できません。
現代においてもAIはまだ発達初期段階なのです。
それは良いとして、うちの会社でも社長が「プログラムで業務効率化して、人間はよりクリエイティブな仕事を行うことでハッピーになろう!」みたいなキャッチフレーズで業務効率化をガリガリ進めようとしてます。
どうも納得がいきませんでした。
生産性を高めたいということですが、その手法は人間の業務をすべて数値化してその数字を整理することから始めるのです。
数字ですよ。
数字全能論です。
そこに魂などありません。
ソウルやスピリッツなどは口上では言いますが、組織論に入ると無視されます。
そんな手法で整理された組織の中で、人間はやる気を出して業務に励めるものでしょうか?
人それぞれの特性を見て業務を配分するならわかりますが、それはこの場合せいぜい後付けでそれも可能な範囲でなされるだけでしょう。ともすると、異動に対する理屈付けの一つとして利用されるだけかもしれません。
組織に入っている以上、その中では仕事をさせてもらえるだけでもありがたく考え、与えられた仕事に対して文句を言ってはダメだというのは、現在の40歳以上の人間の考え方かなと思います。
そうした年齢層は管理職になっていることも多いため、どうしてもその価値観で組織論を押し付けられます。
でもそろそろその価値観が変わってくるのではないかと思います。
ひところのゆとり教育というのは失敗に終わったとされていますが、失敗としている価値観は正に40代以降の人間による評価だと思うのです。
それは簡単に言えば、テストの点数が低いから、与えられた仕事に従順に従わない、気力が無いから、ダメだということです。
すべて、40代以上の人間を中心とした価値観でしかないのです。
気力が無いのは学校教育のせいだ、と決めつけてます。それ以外の要因を考えないのです。
人間とは何だろうか、何のために生きているのかと考えさせられました。
だいぶずれてきたので、この辺にします。
ではまた。
【楽して稼ぐこと】
誰だって楽して稼ぎたいと考えるものだと思うんです。
私もそうです。
それで一時期FXにハマったこともあります。
楽でいて稼げると思ったんですよね。
これで仕事辞められるんじゃないかと思いましたよ。
でもそううまくはいかないもんですね。
まさかの連続で大損こいて終局しました。
その時は大してFXというものを学びもせずに飛び込んでたんです。
大損こいてから初めてFXのことをちゃんと調べ始めました。
そしたら、深いんですよ!
あんなの集合意識の塊だから、と高をくくっていたのですが(まぁ結果的にそれはそうなのでしょうが)、どんな要因が裏に動いているのかを知っておく必要があったと痛感しました。
そして稼いでいる人はどういうアクションを起こしているのか。
掘り下げました。
世界情勢やお金の流れというものに対する知識や何より今度どうなるかという予測を立てるということがとても大事だと思いました。
その上での損切り対策とか精神的な心構えとかなんだなと。
色々ブログなんかも見ましたが、その中で衝撃的だったのが、すごくFXで稼いでいる人の「楽に稼ぐ方法なんてない!」という言葉でした。
衝撃的だったのは、FXという楽に稼ぐ代表みたいに思っていたものの達人が、楽な方法などないと言い切っていることでした。
そりゃそうだよな。。。
と思いましたよ。
でも人ってどこまでも楽して稼ごうと考えてしまうものだと思うんです。
会社で仕事していても、少しでも楽に負荷なく過ごそうとします。
余計だと思う仕事は他人に振ろうとします。
「効率よく」と言えば聞こえはいいですが、要はいかに考えることを排除して仕事を終えられるかどうかということだと思うんです。
でも「楽して稼ぐ」にはそれ相応の下準備が必要なんですよね。
自動販売機でジュースを売れるようにするには、機械を作らなければいけないし、それを配送設置する手立てを用意しないといけないです。
大変な労力だと思います。
でもそれを行って初めて自動的に販売するという仕組みを確立できるんですよね。
大した準備もせずに稼げる金額など高が知れているものということです。
不動産所有者にしてもそれ相応の勉強や調査、その上リスクを取って商売しているのです。不労所得という言葉から、「全く何もせずに空から金が舞い込んでくる」みたいな発想でいるといつが大損します。
そういう楽な儲け方が世の中に存在するという考えを持つこと自体問題だと思います。
いつか誰かに騙されます。
FXで損するというのはある意味騙されているという側面があります。
ゆえに世の中で楽して稼いでいるように見える人たちは、しっかり勉強や調査をしています。
それを見せずに稼いでいるように見せるのは、そうしないと人目を引かないからです。
ただ人気を博したい人もいれば、著作を売りたい、youtubeを見てもらいたい、ブログを見てもらいたい、などの心理があるからです。
正直な人は「楽に稼げる方法はあるが、勉強は必要」と言っています。
そしてその時には相応の出費や時間が必要になることが多いです。
勉強や調査するための出費や時間を惜しんでいたら、いずれお金や時間を浪費することになります。
ではまた。